2012/04
鉄道建設の恩人 エドモンド・モレル君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人16]


―――エドモンド・モレル人物評―――

 モレルは1840年にロンドンで生まれた。キングス・カレッジ・スクールで学び、その後キングス・カレッジ・ロンドンで応用化学を学ぶが、体が丈夫でなく、どちらも卒業までに至っていないようだ。その後、大陸に渡ってドイツやパリの工業学校で学び、ロンドンに戻って土木技師クラークに師事して技術習得に努めた。クラークの推薦で1865年に24歳で英国土木学会準会員に登録された。
 職歴としては、オーストラリアのメルボルンで土木技術者として8か月従事し、ニュージーランドの地方政府機関で約1年、チーフ・エンジニアとして働いている。その後、セイロンで鉄道敷設に係わったとの説、ボルネオのラブアン島で石炭採掘用の鉄道敷設に係わったとの説などがある。
 モレルは専門技術者として、日本での鉄道敷設の仕事の成果が具体的に残り、専門能力が高められて、英国土木協会の実務経験としてフルカウントされるのを楽しみにしていた。更には日本ではお雇い外国人として高い俸給で5年契約して、実利としても有利であったことが来日の目的であり、動機であったと考えられる。
 横浜の外人墓地に眠るモレルの墓は鉄道記念物に指定されている。
 明治の始め、我が国の鉄道建設は非常に早いスピードで進められた。維新政府は中央集権国家建設の大きな手段として鉄道建設を急いだのであろう。
 1853年、ロシアのプチャーチンは、長崎で交渉に当たった川路聖謨、古賀謹一郎らに模型蒸気機関車を見せ、1854年、日米和親条約締結のため訪れたペリーは、小型蒸気機関車模型を横浜で実演運転して見せている。未だパナマ運河はない1860年、遣米使節の正使新見正興、副使村垣範正、目付小栗忠順らは鉄道で大西洋側へ渡った。福沢諭吉は1866年に「西洋事情」を出版し、鉄道についての社会的役割について述べている。
 幕府は米国駐日公使の鉄道建設出願を認許していたが、明治政府は、幕府承認の有効性を否認して米国の要求を拒否し、鉄道は自国建設方式で進めるとしたのは英断であった。

維新政府の鉄道建設
 政府の鉄道建設推進者は民部大蔵大輔大隈重信と少輔伊藤博文であった。目的は、先にも述べた中央集権化と云う政治的目的と人心を驚かす社会的衝撃の二つにあったと云われている。
 大隈重信と伊藤博文はイギリス公使パークスに鉄道建設技術者の派遣を要請し、建築技師長としてエドモンド・モレルが明治3年(1870)に5年契約で来日した。副技師長はジョン・ダイアック、ジョン・イングランド、チャールズ・シェパードの3人、更に技術者や工事担当者を伴って来日した。
 モレルの提出した「鉄道見込書」によると、新橋―横浜間は最重要路線として明治5年中に完成させ、大阪―神戸間は翌明治6年開通させるべきとしている。モレルの功績は、初代技師長として我が国鉄道の建設に貢献したことだが、彼は慣れない土地での激務と肺疾患のため、鉄道が開業する前の明治4年9月に亡くなっている。
 モレルの功績の第2は、彼は日本に来る前にオーストラリアやニュージーランドでの業務経験から、後発国での新規事業は民間任せではなく、一括して政府主導で公共事業を推進すべきだと献言し、工部省の設立を提案した。
 第3は、人材育成である。工学寮と工技養成所の設立を提案し、鉄道技術者の教育は自ら業務の合間に指導教官も務めた。さらに鉄道建設の費用節約のため、最初は鉄道枕木までイギリスへ輸入手配していたものを、国産枕木に変更させた。
 モレルの提言に沿って政府は工部省を創設し、鉄道建設を担当する鉄道寮を設置し、イギリスの鉄道事情に詳しく英語の堪能な井上勝を鉄道頭として担当させた。
 新橋・横浜間の鉄道建設は、六郷川を境として新橋汐留側からと、横浜野毛海岸から測量を開始し、工事をスタートさせた。測量は長崎海軍伝習所で教育を受け、咸臨丸航海天測でも力量を発揮した日本人技術者小野友五郎が助手として加わっている。しかし、鉄道反対派は、三田の旧薩摩藩邸を通ることを拒否し、軍部も旧台場などの陸海軍敷地を鉄道ルートに提供せず、用地買収に窮したが、このような場所は海岸を埋め立て、海中築堤によって鉄道線路とした。
 横浜側も一部海岸埋立てを行っており、土木工事を担当した高島嘉衛門の名が今も町名として残っている。横浜側の工事が早く進み、明治5年5月には横浜・品川間で仮開業をした。“陸蒸気”と呼ばれた列車に乗った人達は、乗り心地の良さとそのスピード・時間短縮に好感を持ち、反対派は急激に減り大隈・伊藤の作戦は成功した。新橋・横浜間は10月14日に開業式典を挙行し、この日が鉄道記念日となっている。
 神戸・大坂間の工事は横浜側より4か月後にスタートした。大阪湾沿いに設定されたルートには、石屋川、住吉川、芦屋川、武庫川、神崎川など六甲山から海にそそぐ急流の川が多くあり工事は難航した。井上勝は自ら大阪に駐在して工事監督をし、予定より半年遅れで明治7年5月に開業した
 京都・新橋間のルートは、主要街道の東海道は宿場などでルート選定が難しいこと、海岸線は外国船の砲撃を受けやすいと陸軍が反対したことから中山道案に決まっていた。モレルの後任で来日したボイルは中山道を徒歩で調査して、碓井峠など困難なルートが多くあるが、未開地に鉄道を敷設すると経済効果が高いとの報告書を提出した。しかし、鉄道ルートが長くなり建設費も嵩むことや急傾斜を走る技術的難易度を考えて、紆余曲折の末、東海道案に変更された。
 明治22年、東海道線は神戸から新橋まで、現在の御殿場線を通って完成し、営業運転を始めた。建設に関わった外国人技術者の努力と、その後の教育研修で技術力を習得した我が国鉄道技術者たちの努力が報われた。

鉄道史跡めぐり
 JR品川駅前に鉄道創業の碑が建っている。我が国最初の鉄道は新橋・品川間で開通した。
 汐留シオサイトの再開発事業により、創業当時の鉄道遺跡も発掘され、新橋停車場跡地に創業当時の駅舎が復元された。中には「鉄道歴史記念室」があり、工事開始時の“0哩杭”やホームも復元している。
 横浜桜木町駅にも鉄道創業記念碑があり、当時の時刻表や運賃表も記載されている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




On Line Journal LIFEVISION | ▲TOP | CLOSE |